天理柔道が関西柔道に与えた影響
はじめに
昭和20年 (1945)日本の敗戦により,GHQの力が武道界にも波及するようになった。 そして,昭和21年(1945)10月31日には大日本武徳会が解散し,併設の武道専門学校も廃校のやむなきに至った。これにより,昭和20年代の関西地区における柔道は,強力な強豪校もなく,約10年近く低迷を続けた。その間,武道専門学校の関係者は武道専門学校再建に尽力したが,再建するだけの政治的,経済的な力はなかったようである。これを打破し,関西柔道のレベル向上を計るため,戦後最初の柔道指導者養成と選手強化の機関として,当初は天理短期大学保健体育科の中に柔道コースを,二年後には大学体育学部を設け,さらに柔道コースを充実させることに英断を下されたのは,天理教二代真柱中山正善氏の柔道を愛する真摯な気持ちからである1)。指導者も当時闘志旺盛な松本安市氏を迎えた。氏は大々的に 「走ることと一本をとる攻撃型柔道」の重要性を説いた。これを実施し,稽古不足を補い,基礎体力強化を目的とする「画期的」なトレーニング方法と攻撃型柔道の稽古方法を導入し,短期間にして選手達を日本一に育て上げた。このことが,関西柔道のレベルアップの向上に寄与した。本稿では,柔道コース設立と松本安市の指導理念について述べてみる。
天理柔道の充実
昭和11年 (1936)天理中学が奈良県で 3連覇を飾った。当時,郡山中学,畝傍中学,奈良師範などが強豪校として名を馳せており,奈良県3連覇は価値ある勝利であった。そして昭和14年 (1939)最大目標であった4帝大主催の全国大会で初勝利を飾ることができた。この 4帝大主催の全国大会は,全国的に権威ある大会であった。天理外国語学校も昭和15年 (1940)に全国高専大会において初優勝の栄冠に輝いた2)。この大会で優勝した選手達は,新生天理大学発足後,柔道部の学生達と共に激しい稽古をしたようである。天理柔道を背負ってきた方々が,太平洋戦争の戦線拡大により召集,出陣,そして戦死という悲報が相次いだ。天理中学校を卒業され,武道専門学校に進学し,卒業後,天理中学校に柔道教師として奉職された小林徳正氏は,ガダルカナルで戦死された。天理柔道関係者はこの悲報に接し,「お先真っ暗だ」 と極論された方もおられたようである。小林徳正氏の功績として,当時 「教内関係者を中心とした柔道を広く街の青少年達にも指導したい」 旨を二代真柱中山正善氏に言上した結果,「大変良いことだ」という全面的な支援の下で「順正館道場」の設立に寄与したことである。当時の道場の広さは44-45畳位と筆者は記憶している。このことは広く一般にも柔道に親しんでもらいたいという中山正善氏の気持ちのあらわれであろう。昭和20年 (1945)11月GHQによって学校柔道が全面的に禁止されることになり3),柔道は冬の時代を迎えたが,かろうじて順正館道場での稽古により細々と命脈を保った状態であった。
天理短期大学保健体育科 柔道コースの誕生
昭和25年 (1950)9月GHQにより学校柔道の復活が許可された4)。その頃より天理高校で同好の者が集い,徐々に柔道部として活動するようになった。昭和27年 (1952),大阪府立体育会館で開催された,全日本学生東西対抗柔道試合において西軍が大敗を喫した。特に学生の実力の低下は著しく,目をおおうばかりであった。関西の柔道そして天理柔道に心を寄せる者が集い,「もう一度,昔日の関西柔道,天理柔道を大々的に復活しては- (後略)」 と話しが持ち上がった。その当時,旧武道専門学校教授の胡井剛一氏が天理順正館道場師範を勤めていた。終戦時に武道専門学校が廃校になっていたので5),氏は卒業生らから武道専門学校の復活を頼まれ奔走した。 しかしながら,学校制度が変わり,体育大学でなければできないとのことで諦めざるを得なかった。氏は,天理短期大学保健体育科に柔道を取り入れて,柔道の実力のある体育の教師を養成することが最も良いと思い,天理外国語学校の先輩である高橋茂男氏や安田三郎氏等に相談したところ,中山正善氏に話してみようとのことで話がまとまった。中山正善氏は 「それはいいことだ,早速大学の中で指導者を養成しろ」 という英断をくだした。そして昭和28年 (1953)天理短期大学保健体育科に柔道コースが設けられた。第1期生として,現米国在住の今村春男氏はじめ11名が入学した。このことは,新生天理柔道が,後に世界に羽ばたく第一歩を踏み出す記念すべきできごととなった。これに先立ち,中山正善氏は,日本最初の指導者養成専門機関と云うことで全日本柔道連盟会長嘉納履正氏,九州柔道連盟会長竹村茂考氏,関西柔道界の重鎮,栗原民雄氏,森下勇氏,関西学生柔道連盟会長山沢準三郎氏,同副会長の広瀬省三氏,同理事長山内亘氏等を一同に集め,各氏より丁寧に意見を聴取した。一同は,このような専門コース設立に対して大いに賛同し,援助を惜しまないと異口同音に話したそうである。特に,関西柔道の重鎮の各氏は 「武道専門学校」再現の夢を天理大学の柔道に託している観が強くあったようである。
指導陣の充実
戦後最初の専門コースの設立と云うことで,学生を牽引できる指導者についての討議の際,中山正善氏は宗教色をつけないで招聘したい意向を持っておられた。天理教内部にも往年の高専大会で活躍された高段者も数多く,また天覧試合府県戦士の部で優勝された木原久夫八段らもいたが,中山正善氏は,旧武道専門学校OBの強い要請にもとづ き,福岡県警で師範をされていた松本安市氏を招聘する運びとなった。松本安市氏は後日,「学生の指導をするということに非常に魅力を感じ,そして強くなく,未知数の者の指導が出来る,はっきり申して天理だからというものではなく,そういう学校で指導ができるのであれば,きっと楽しいものに違いない, と考え『行こう』と決心をし,新築間もない家を処分し,天理にお世話になることになった。」 と語っている。松本安市氏の闘志は定評があり,一つのものごとに情熱を燃やす方であり,ものごとをやりだせば徹底的に取り組む性格でもある。昭和28年 (1953)の4月の入学者は無段者も含め僅か11名であった。氏は,稽古初日に入学者があまりにも弱く愕然とした。満足な稽古相手もおらず,仕方なく稽古を毎日2回ずつ行い,そして,当時の他の指導者と違い 「走る」ことを稽古に取り入れた。現代では走ることは普通であるが,当時,走ることで稽古不足を補い,そして基礎体力の強化を図ったのである。この「画期的」な稽古方法が松本安市氏の特徴でもあった。「何がなんでも強くするのだとの気持ちで接した」松本安市氏は当時を振り返り「柔道に対して,とにかく情熱をかたむけて指導し,そして常時部員達と一緒に過ごす方法をとった」 と語っている。さらに「僕の指導方法 (走ることと一本をとる攻撃型柔道)がどうのこうの- (松本安市氏説)」と内外から批判が集中した6)が,氏は氏の信念のもとでこれまでの方法での指導を続けた。それが 3年後の昭和31年(1956),学生大会の優勝により松本安市氏の賢明な指導方法に誤りがなかったことが立証された。これは,中山正善氏が陰になり日なたになり,常に暖かい励ましを送ったこともその要因である。その後,指導陣に広川彰恩氏(大谷大学卒),橋元親氏 (武専卒)を招聘,充実し,学生も2期生以降,毎年約20名の入学者を数えるようになり,質量ともに充実していった。
関西柔道の実力向上と天理柔道の果たした役割
昭和30年 (1955)天理短期大学が発展的に解消し,4年制大学に移行したことは周知の通りである。前述の昭和31年 (1956)の学生日本一は,3年程の短期間で成就したことにより,当時の関係者の驚 きは大きかったようである。その後,関西にある強豪校,東京の各大学,都道府県の警察,実業団のチームが,何故,短期間のうちに成果が出たのか,多くの人々が天理に視察に来たようであった。松本安市氏は嫌な顔もせずに,「全般的な実力向上を計れるならば」という気持ちで「うちはこういうことをやっております」と全て見せたようである。特に,関西の各警察,大学,実業団での合同稽古では良い意味での猛烈なライバル心を燃やしたことは言うまでもない。このように,天理大学の優勝により関西柔道界全体が選手強化に関して各チーム独自の鍛練法に加えて,松本式トレーニングの導入により,実力向上を図ったことは,全日本学生東西対抗試合などの対戦で双方共括抗した試合をするようになったことが何よりも顕著な例であろう。後に天理大学は,全国大会11回,関西大会46回の優勝を飾ったのである。一方,天理高校も戦後初めて,昭和37,38年(1962,63)に天理大卒中尾勝彦氏の指導のもとで 2連覇を果たし,以後13回の優勝を飾っている7)。この戦績からも関西における天理柔道は関西柔道の発展に大きく寄与しており,世界的強豪達も東京を素通りして天理での練習に直行するケースも増えてきたのである。
おわりに
以上述べてきたように,旧武道専門学校廃校により,昭和20年代は関西柔道全体が低迷していた。昭和28年武道専門学校に変わる天理短期大保健体育科内に柔道コースが設けられた。これは天理教二代真柱中山正善氏の英断によるものである。その専門コースの指導者に九州から松本安市氏を招聘されたことは,飛躍する大きな原動力となった。松本安市氏の稽古方法は当時の柔道界では画期的であり,脚力を鍛える 「走る」こと,一本をとる 「攻撃型」柔道を徹底的に指導した。昭和31年,3年程の短期間で天理大学が全国制覇をしたことにより,全国の各チームより注目され,特に,関西の諸チームは独自の鍛練法に加えて松本式の鍛練法を導入し,飛躍的に実力を向上させた。このように天理柔道が関西全体の実力向上に影響を与えたのは十分理解できることである。
文 献 1)近代武道研究会編著武道の歩み90年,p.142商工財務研究会昭和36年(1962) 2)前掲書,p.82 3)天理大学おやさと研究所編天理教事典,p.467天理事報社 (1997)※天理教の統理者 4)天理大学おやさと研究所編グローカル天理2001年12月号 5)天理柔道会編天理柔道会報⑨天理時報社(1975) 6)天理柔道会編天理柔道史①pp.854-856天理柔道会 (1977) 7)天理スポーツ編集委員会天理スポーツ年表他天理道友社 (1991)
天理柔道史(概略)
1925年| 天理外国語専門学校開校 6月柔道部を設立 (天理中学校で練習を始める)
|二代真柱様講道館柔道三段に昇段
|嘉納治五郎師範天理中学に来校,「柔道の本義」の演題で講演
1930年| 天理外国語学校柔道場落成式
1931年| 二代真柱様柔道四段に昇段 ・天理「順正会」正式に発会
1938年| 二代真柱様柔道五段に昇段
1939年| 天理柔道会順正館道場創設
1945年| 二代真柱様柔道六段に昇段
1949年| 天理語学専門学校 を天理大学と改称
1950年| 天理大学短期大学部認可
1951年| 第1回関西学生大会に大学と短大混成チームで参加,大谷大に惨敗
1952年| 天理短期大学に保健体育科を新設
1953年| 天理短期大学保健体育科に格技課程を設ける 松本安市師範就任
|二代真柱様柔道七段に昇段
1954年| 全日本学生選抜渡米 (監督広川彰恩,選手今村春夫)
1955年| 体育学部増設 (保健大学体育科を移籍) 第5回関西学生大会団体・個人とも初優勝
1956年| 第5回全日本学生優勝大会に参加3年目で初優勝 (東京国技館)
|第8回全日本学生選手権大会,米田圭佑優勝
1959年| 第8回全日本学生優勝大会で2回目の優勝
1960年| 二代真柱様柔道八段に昇段
|第9回全日本学生優勝大会で3回目の優勝
1961年| 体育学部が高知詰所跡へ移転
1964年| 松本安市師範 (天理大学教授)東京五輪 日本監督 東京五輪,ホフマン2位,金義泰3位
1965年| 第4回世界選手権大会,中量級山中2位,金 3位,軽量級湊谷 2位
1966年| 全日本選手権大会で岡野功 (天理大学体育学部助手)が優勝
|柔道研修目的の外人増加に伴い,天理大学選科日本語科に「二部」の過程を設置
|第16回全 日本学生優勝大会で 7年ぶり4回目の優勝
|11月14日二代真柱様出直し(享年63歳)
1969年| 第6回世界選手権大会,軽重量級笹原,軽中量級湊谷が優勝
1970年| 第19回全日本学生優勝大会で 3年ぶり5回目の優勝
1971年| 第 7回世界選手権大会,軽重量級笹原,中量級藤猪が優勝
1972年| ミュンヘン五輪軽中量級で野村豊和が優勝
1973年| 第8回世界選手権大会,中量級藤猪,軽量級野村,無差別級二宮が優勝
|第22回全日本学生優勝大会で6回目の優勝
1974年| 第23回全日本学生優勝大会で7回目の優勝
1975年| 第8回世界選手権大会,中量級藤猪が優勝
1976年| モントリオール五輪軽重量級で二宮が優勝
1978年| 天理大学武道場 (体育学部内)落成
1979年| 第11回世界選手権大会,78kg級藤猪が史上初の4連覇
1980年| 第30回全日本学生優勝大会で7年ぶり8回目の優勝
1984年| ロサンゼルス五輪60kg級で細川が優勝
1985年| 第14回世界選手権大会,60kg級で細川,無差別級で正木が優勝
1986年| 全日本選手権大会で正木が初優勝
|第35回全日本学生優勝大会で5年ぶり9回目の優勝
1987年| 全日本選手権大会で正木が2連覇
1988年| 日本学生柔道連盟統一記念大会で2年ぶり10回目の優勝
1992年| 田町寮開寮
1993年| 第42回全日本学生優勝大会で5年ぶり11回目の優勝
1996年| アトランタ五輪60kg級で野村が優勝
1997年| 第20回世界選手権大会,60kg級で野村が優勝
1998年| 全日本選手権大会で篠原が初優勝
1999年| 第21回世界選手権大会,100kg超級・無差別級で篠原が2階級制覇
|全日本選手権大会で篠原が2連覇
2000年| 全日本選手権大会で篠原が3連覇
|シドニー五輪60kg級で野村が2連覇,篠原銀メダル
2004年| アテネ五輪60kg級で野村が3連覇
2005年| 天理大学創立80周年,体育学部創部50周年
参 考 1)天理柔道会編 天理柔道史 (1) 天理柔道会 (1977) 2)天理柔道会編 天理柔道史 (2) 天理柔道会 (1987) 3)天理柔道会編 天理柔道史 (3) 天理柔道会 (1997)
五輪・世界選手権メダリスト
湊谷 弘 | 山中 圏一 | 金 義泰 |
遠刕 信一 | 前島 延行 | 野村 豊和 |
金 七福 | 平尾 勝司 | 呉 勝立 |
笹原 富美雄 | 川端 智幸 | 藤猪 省太 |
二宮 和弘 | 高橋 政男 | 細川 伸二 |
正木 嘉美 | 大迫 明伸 | 篠原 信一 |
野村 忠宏 | 真喜 志慶治 | 穴井 隆将 |
大野 将平 | 丸山 城志郎 | 新添 左季 |
全日本柔道選手権優勝者
正木 嘉美 | 篠原 信一 | 穴井 隆将 |